2026-08-16 コメント投稿する ▼
村岡敏英議員、成田空港用地「任意取得へ最大限努力を」35年前の秘命と父の教訓
この遺族弔問から約3ヶ月後の1991年5月28日、父・兼造氏は、成田空港問題の平和的解決と地域振興を目指す第三者機関「地域振興連絡協議会」に対し、「いかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らない」ことを正式に確約しました。 これに対し、村岡議員は、父・兼造氏が遺した「一利一害」の精神と、自らが秘書官時代に経験した血塗られた対話の記憶を呼び起こし、警鐘を鳴らしています。
父からの「密命」と遺族弔問
村岡議員が政務秘書官を務めたのは、1990年12月から1991年11月にかけての第2次海部改造内閣で、父・村岡兼造氏が運輸大臣を務めていた時期です。この頃、成田空港問題は再び緊張感を増していました。前任の江藤隆美大臣が反対派に対し「外国なら戦車で1時間で整理する」と発言したことが波紋を広げ、後任の奥田敬和大臣も「いつまでも待っているわけにはいかない」と強制収用に含みを持たせる発言をしたため、問題は一層こじれました。こうした状況下で、穏健派として知られた父・兼造氏が運輸行政のトップに就いたのです。
村岡議員は、当時、父から「密命」とも言える極秘の任務を託されたことを明かします。それは、1977年に発生した成田空港建設反対派の支援者と機動隊との衝突の中で亡くなった東山薫さん(当時27歳)の遺族への弔問でした。東山さんの遺族は「死因はガス銃の水平撃ちだ」と主張し、国や警察との間で法廷闘争を続けていました。国は事件から14年もの間、公式な弔意を一切伝えていなかったのです。官僚だけでは遺族の心を開くことは難しいと判断した父・兼造氏は、大臣の息子である敏英氏に白羽の矢を立てました。
「危険が伴うかもしれない」との予想もあり、1991年2月26日、村岡議員はSP(セキュリティポリス)に守られ、官僚と共に奈良市の東山さん宅を訪問しました。しかし、事前に情報が漏れていたのか、自宅前には支援者や報道陣が待ち構えており、お忍びどころではなかったのです。裁判で係争中ということもあり、国や警察の責任を直接問うような発言は避ける必要がありました。「成田空港建設過程の中でご不幸に巻き込まれたご子息にお悔やみ申し上げます」と村岡議員が述べると、遺族の父は涙を流しながら、「わざわざ来ていただき、本当にありがとうございます。国がやった事業に息子が巻き込まれたのに、国からは誰一人来てくれませんでした。本当に感謝します」と深々と頭を下げたという。この弔問は、国家と反対派との間に横たわる深い溝を埋める小さな一歩となったのです。
過激派の脅威と「平和的解決」への道
この遺族弔問から約3ヶ月後の1991年5月28日、父・兼造氏は、成田空港問題の平和的解決と地域振興を目指す第三者機関「地域振興連絡協議会」に対し、「いかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らない」ことを正式に確約しました。この確約は、反対同盟の中でも話し合い路線を重視していた熱田派が、国などとの公開討論「成田空港問題シンポジウム」への参加を決断する大きな契機となったのです。
しかし、平和的解決への道は平坦ではありませんでした。熱田派が話し合いに応じる一方で、北原派を支援する中核派などの過激派は、依然としてテロ行為を繰り返していました。村岡議員は、「『村岡秘書官を殺せ』と言っていた人もいたらしい」と当時の緊迫した状況を振り返ります。ある日には、村岡議員の自宅に爆弾が仕掛けられたとの情報が入り、警視庁による周辺の厳重な捜索が行われましたが、幸い不審物は発見されませんでした。政府内では、「農家とは粘り強く話し合いを続け、過激派は法と秩序に基づいて封じ込める」という方針が取られていましたが、その実行は極めて困難を極めました。この経験は、対話と断固たる姿勢という相反する二つの要素をいかに両立させるかという、政治の難しさを村岡議員に痛感させたのです。
元運輸相の教訓「一利一害」
村岡兼造元運輸相は、政治における政策決定の基本姿勢として、「一利一害」という言葉をよく口にしていました。これは、どのような政策であっても、国民全体あるいは一部にとっての利益(利)があれば、必ずどこかに不利益や負担(害)が生じるという考え方です。政治の役割とは、その「害」の部分にきめ細やかに配慮し、影響を最小限に抑えることにあるのです。
この教訓が痛感された出来事の一つが、1991年5月に発生した信楽高原鉄道事故です。この列車正面衝突事故では、42名もの尊い命が失われるという大惨事となりました。父・兼造氏は、遺族への謝罪など、真摯な対応に努めました。しかし、事故の直接的な原因となったJR西日本の対応は拙劣であり、後々まで批判の的となりました。村岡議員は、「謝らなければならないときは、誠意をもって迅速に謝罪することが、後々の禍根を残さないために重要だ」という父の教訓を、今回のインタビューで改めて強調しました。
現代に繋がる「任意取得」への訴え
そして今、半世紀以上にわたる歴史を持つ成田空港問題が再び新たな局面を迎えています。空港のさらなる機能強化のために不可欠とされる用地取得において、NAAは土地収用法に基づく手続きを進める方針を固めました。これに対し、村岡議員は、父・兼造氏が遺した「一利一害」の精神と、自らが秘書官時代に経験した血塗られた対話の記憶を呼び起こし、警鐘を鳴らしています。「成田空港問題は、最初にとことん話し合うべきだった」と振り返る村岡議員は、現代においても、空港機能強化の必要性は認めつつも、地域住民との関係性を最優先すべきだと訴えています。「空港の機能強化に向けて、地域の声に真摯に向き合い、ぎりぎりまで任意取得に向けた努力をすべきだ」と述べる村岡議員の言葉には、過去の教訓を踏まえ、力による解決ではなく、粘り強い対話と最大限の配慮を通じて地域社会との共生を図るべきだという強い思いが込められています。政治とは、単に事業を進めることだけではなく、その過程で生じる痛みをいかに和らげるかが問われるという父の教えが、現代の空港用地交渉にも響いているようです。