2025-06-16 コメント: 2件 ▼
れいわ新選組が“秘書給与詐取で服役”の候補者を擁立 政治倫理と更生支援の線引きとは
25年前に秘書給与詐取で実刑判決 れいわが擁立した異色の候補
2025年6月13日、れいわ新選組は今夏の参議院議員選挙に向けて、東京都選挙区から山本ジョージ氏を公認候補として擁立したと発表した。山本氏は現在、同党の「参議院東京都政策委員」を務める人物である。
だが、今回の発表が波紋を呼んでいるのは、単に無名の候補が登場したからではない。山本氏自身が公式プロフィールで語った通り、山本氏は「25年前に秘書給与詐取事件を起こし、第一審判決に従って服役した」経歴を持つ。公職選挙法違反や政治資金規正法違反と並び、秘書給与詐取事件は、政治家による“公金不正”の典型とされ、極めて悪質なものとして知られている。
山本氏は当時、政策秘書に対して支払われる国費(税金)を詐取し、私的に流用したとされている。服役後は、刑務所で出会った障害者や高齢受刑者の境遇に心を動かされ、「生きづらさを抱える人々の支援」に身を投じてきたと語る。
今回の出馬にあたっては、「生きているだけで価値がある社会をつくりたい」と抱負を述べているが、果たして25年前の不正行為が“過去のこと”として済まされる問題なのか、議論が沸き起こっている。
政治に必要なのは「共感」ではなく「信頼」
れいわ新選組はこれまでも、障害者支援や困窮者の立場に立った政策を掲げ、既成政党とは異なる路線で支持を集めてきた。一方で、「政治家に必要なのは理念だけでなく倫理である」という原則を忘れてはならない。
政治家が不祥事に問われ、説明責任を果たさずして再起を果たすことが、たびたび国民の政治不信を加速させてきた。秘書給与詐取は、単なる事務的なミスではない。納税者の金を意図的にだまし取った、国民に対する裏切り行為である。
それから25年が経過したとはいえ、そのような人物を立法府に送り込もうとする行為には、単なる“共感”では補えない重さがある。政治家に求められるのは、被害者意識ではなく、徹底的な透明性と説明責任である。
更生は社会的に尊重されるべき行動だ。しかしそれが直ちに「国会議員にふさわしい人物だ」との評価にはつながらない。むしろ、再起の場を福祉活動やNPOに見出す道もあったはずであり、なぜ“国政”という舞台に立つ必要があるのか、その必然性が問われる。
ネット上には冷静な批判が噴出
この発表を受け、SNSでは大きな反響が巻き起こっている。称賛よりもむしろ、冷静で懐疑的な意見が目立つ。
「秘書給与詐取って、政治家として一番やっちゃいけないやつじゃない?」
「感動的な語りはもう十分。それと立法府に入る資格は別だよ」
「れいわ好きだけど、これはさすがに擁護できない」
「更生支援は続けてほしいけど、国政に関わらせるべきではない」
「選挙を“再起物語の舞台”にするのは、有権者を甘く見てる証拠」
こうした声から見えるのは、「更生を否定するつもりはないが、国会議員としての適格性とは別問題」とする市民の明確な線引きだ。
“更生”と“国会議員”の間にある深い溝
今回の擁立がもたらした最大の問題は、れいわ新選組が“政治の倫理”よりも“感情的な物語”を優先した印象を与えてしまったことだ。いかに志があろうと、公金不正の前歴がある人物が再び税金の使途を決める側に立つことに、多くの国民が疑念を抱くのは当然である。
政治家は国の仕組みをつくる立場にある。それゆえに、私たちは政治家に「清廉性」や「信用力」を強く求める。今回の件で、それを乗り越えるだけの“説明”がれいわ新選組側からあったとは言い難い。むしろ、“誰もが政治家になれる”というメッセージが、逆に政治の品格を引き下げる危うさをはらんでいる。
また、これまで国会議員の中には、企業献金や裏金、違法献金問題に関与した者も少なくなかった。そうした不信の積み重ねにより、国民は「信頼できる政治家がいない」と嘆くようになった経緯がある。今回の擁立は、まさにその「信頼回復」に逆行する判断とも受け取られかねない。
問われるのは候補者の過去ではなく、党の“覚悟”
候補者の過去は変えられない。しかし、その過去をどう捉え、どう説明し、どう向き合うのかは、政党の責任である。れいわ新選組は今回、あえてその“重たい選択”をしたわけだが、それが果たして社会に対する誠実なメッセージになっているのか。今後の選挙戦において、厳しい目が向けられることは避けられないだろう。
政治とは、物語ではない。信頼と制度、説明責任によって築かれる公的な営みである。誰を候補者にするかは政党の自由だが、その選択は、政党全体の信用にも直結する。今こそ、国民がその意味を見極め、冷静に判断する時である。