2026-03-08 コメント投稿する ▼
馳浩氏が石川県知事選で敗北 高市早苗首相応援も能登地震対応が致命傷
元プロレスラーという異色の経歴を持ち、ジャイアントスイングを得意技とした馳氏でしたが、今回はジャイアントスイングならぬジャイアントキリングをくらう形となりました。 今回の知事選は、2024年元日に発生した能登半島地震後、初めての知事選でした。 山野氏は1995年に金沢市議に初当選し、2010年から2022年2月まで金沢市長を務めました。
任期満了に伴う石川県知事選は2026年3月8日に投開票され、再選を目指した現職の馳浩氏が、自民党出身で金沢市長を務めた無所属新人の山野之義氏に敗れる大波乱が起きました。選挙期間中には高市早苗首相のほか日本維新の会の吉村洋文代表ら政権幹部の応援も受けており、与党内にも衝撃が走っています。
元プロレスラーという異色の経歴を持ち、ジャイアントスイングを得意技とした馳氏でしたが、今回はジャイアントスイングならぬジャイアントキリングをくらう形となりました。
6110票差の僅差で前回の雪辱を果たされる
石川県選挙管理委員会の開票結果によると、山野氏が24万5674票、馳氏が23万9564票を獲得しました。得票差はわずか6110票です。自民党・維新の推薦を受け、高市早苗首相自ら現地入りして応援した現職が、政党推薦なしの新人に敗れました。
4年前の2022年、この2人はすでに一度戦っています。前回の石川県知事選では馳氏が19万6432票、山野氏が18万8450票で、馳氏が約8000票差で山野氏を振り切り初当選しました。今回はその構図が逆転したのです。
馳氏は敗戦を受け、事務所で支援者の前に立ち、深々と頭を下げました。「結果はひとえに私の責任。申し訳ない。結果を厳粛に受け止め、能登の復興にどう関わることができるか考えたい」と話しました。山野氏当選確実と聞いた瞬間、事務所では「えぇ」「噓だろ」との声が漏れたといいます。
馳氏は目を潤ませ「こうなった結果はひとえに私の責任だ。本当に申し訳ない」と深々と頭を下げ、支援者からすすり泣きの声も漏れました。選対本部長の岡田直樹参院議員は「馳さんを支えきれなかったことは、われわれの力不足だ。この4年間、休まず働いた奮闘ぶりはどうか忘れないでほしい」と声を詰まらせました。
「馳さん、高市首相まで応援に来てたのに負けるとか」
「能登地震の対応が遅れたって批判されてたもんな」
「金沢市で3万4千票差って、山野さんの地元の強さがすごい」
「ジャイアントスイングの人がジャイアントキリングされるとは皮肉だね」
「1期で知事交代って石川県で初めてらしいよ」
能登半島地震対応の遅れが致命傷に
今回の知事選は、2024年元日に発生した能登半島地震後、初めての知事選でした。地震からの復旧・復興などが主な争点となりました。
馳氏は今回、全19市町長の支援を受け、「オール石川」といえる盤石の組織態勢で挑みました。選挙期間中は高市早苗首相をはじめ総勢20人以上の国会議員が応援に駆け付けるなど「国とのパイプ」もアピールしました。1期目の後半からは地震と豪雨の復興に全力を尽くした実績を訴えて回りましたが、震災後初めての選挙で批判の風を抑えきれませんでした。
2024年元日に発生した能登半島地震に対する馳氏の対応が遅れたことが、県民の不満を招きました。馳氏は東京帰省中で、被災地への初訪問まで約2週間かかり、その間に県民の信頼を失いました。県の検証報告書でも「県が救助の実施主体という意識、全庁体制で災害対応を行うという意識が欠如し、対応が受け身」と指摘され、県自身が「主体意識の欠如」を認めました。
また、馳氏は約3年間、定例記者会見を開かず、県民との対話を拒む姿勢が印象を悪化させました。この間、県民は情報を得る機会を失い、山野氏が記者会見の再開を公約に掲げたことで、彼の支持が高まりました。
金沢市で3万4000票差が勝敗を決定づけた
地域ごとの得票を見ると、金沢市だけで山野氏は10万9854票を獲得し、馳氏の7万5876票に約3万4000票差をつけました。山野氏が金沢市長を約11年務めた知名度と実績が、ここに表れています。
山野氏は1995年に金沢市議に初当選し、2010年から2022年2月まで金沢市長を務めました。2015年に金沢マラソンを創設したほか、2020年以降は新型コロナウイルス禍の対応にあたりました。2022年の石川県知事選では馳氏に敗れましたが、今回は「まっすぐ県民目線」を掲げ、11年余りの市長経験と県民に開かれた県政運営を訴えて雪辱を果たしました。
投票率は54.68パーセントで、2022年の前回知事選を7.14ポイント下回りました。
プロレスラーから政界へ異色の経歴
馳氏は星稜高でレスリングを始め、3年で国体優勝しました。専大4年で全日本学生優勝し、卒業後は星稜高で国語の教員を務めました。1984年に全日本選手権で優勝し、グレコローマン90キロ級で同年のロサンゼルス五輪に出場しました。
アマレスの輝かしい実績を引っ提げ、1985年にジャパンプロレスに入団し、1986年にプエルトリコでデビューしました。1987年の小林邦昭とのデビュー戦でIWGPジュニア王座を奪取しました。デビュー戦での戴冠は史上唯一の快挙でした。その後、IWGPタッグ王座を3度戴冠し、1996年に全日本に移籍しました。
全盛期は黄色ショートタイツがトレードマークで、得意技は相手の足を持って振り回し観客をコールで沸かせるジャイアントスイングでした。また裏投げも多用し、試合を決める必殺技はノーザンライトスープレックスでした。私生活では1994年にタレント高見恭子氏と結婚しました。
1995年に参院議員に初当選し、2000年には衆院議員になりました。政界では石川出身の森喜朗元首相のバックアップを受け、衆参両院で約26年国会議員を務めました。議員となった当初はプロレスを並行していましたが、2006年8月27日に引退試合を行いました。ただ、2017年にプロレスリング・マスターズでリング復帰し、2023年1月1日にはノアのリングに上がるなど、政界進出後もスポット参戦していました。
通常、2期目を目指す現職は強いとされますが、そうした強みを生かすことはできませんでした。事実上の保守分裂選で、両者による一騎打ちとなった今回の知事選。再選を目指すに当たって馳氏は国会議員の経験と国とのパイプを強調しましたが、能登半島地震への対応の遅れという致命的な傷を覆すことはできませんでした。