2025-11-09 コメント投稿する ▼
高市政権の米政策 市場任せでは安定しない米価
特に2010年代以降、主食用米の平均販売価格は生産費を下回ることが常態化し、時給換算で10円台に沈む農家も少なくない。 こうした現場の声は、単なる悲鳴ではなく警鐘である。 食料の安定供給を「需要に応じた生産」で言い換えることはできない。 米は国の礎であり、単なる需要曲線の一点ではない。
需給調整の名で続く減産政策
高市早苗政権が掲げる「需要に応じた米生産」は、耳ざわりこそ良いが、実態は旧来型の減産誘導にほかならない。鈴木憲和農林水産相は就任後、2026年産の主食用米について2025年産収穫量より5%、約37万トン減らす方針を示した。これは政府が見込む最大需要量に合わせただけの数字であり、結果として供給余力を削ぎ、再び市場不安を呼び込む危険をはらむ。
石破前政権が8月、「増産転換」を打ち出したのは、2023年から24年にかけての米不足を受けての苦渋の判断だった。ところがその後、価格上昇が一段落したことを理由に、わずか2か月で増産方針は撤回された。現政権は「不足感は解消した」と説明するが、実際には備蓄放出と加工用・飼料用米の転用で一時的に市場をしのいだだけである。根本的な需給安定策は何も講じられていない。
「市場任せ」では農家も消費者も守れない
鈴木農水相は「米価は市場が決めるべきで、政府は関与しない」と繰り返す。しかし、30年前に政府が生産調整を市場任せに転じて以降、米価は長期的に下落し、農家の採算は崩壊した。特に2010年代以降、主食用米の平均販売価格は生産費を下回ることが常態化し、時給換算で10円台に沈む農家も少なくない。流通大手による買いたたきや、コスト高を吸収しきれない構造がそれを助長した。
一方で、昨年来のように供給が逼迫すれば米価は急騰し、消費者の生活を直撃する。2024年の米騒動では、小売価格が前年より2割以上上昇し、低所得層や給食事業者が打撃を受けた。市場任せとは、価格が「下がるときは農家が苦しみ、上がるときは消費者が苦しむ」仕組みである。どちらの立場も守られない。
備蓄縮小の危うさと政府責任の後退
高市政権が進めようとしている備蓄制度の見直しも、危険な兆しを帯びている。政府備蓄米の縮小や民間備蓄の導入、さらには輸入米の活用を検討しているが、これは国家備蓄の本旨を損なう。日本の米は単なる商品ではなく、主食であり、緊急時の食料安全保障の根幹をなす。財政負担を軽減する名目で備蓄を民間に委ねれば、有事の供給力は著しく脆弱化する。
さらに、備蓄量を削る一方で生産量まで抑制する政策を続ければ、災害や不作が重なった場合、再び深刻な米不足を招く可能性がある。2023年の教訓を忘れてはならない。米は1年で急に増産できる作物ではない。農家が継続して作付できる環境を保つことが、最も安定した供給策である。
価格安定のための現実的な方策
米価を安定させるには、需給のギリギリ運用をやめ、ゆとりある計画と柔軟な介入を制度化するしかない。政府は過剰時に買い上げ、不足時には放出する——この当たり前の機能を復活させることだ。同時に、生産費を下回る販売価格になった際に差額を補填する「価格保障・所得補償制度」を恒久的に整備すべきである。欧米ではすでに同種の仕組みが定着しており、日本だけが「市場任せ」を続けているのは時代錯誤だ。
「値段が安定してこそ安心して作れる」
「主食を政府が守らない国はない」
「農家が減れば、次は消費者が困るだけだ」
こうした現場の声は、単なる悲鳴ではなく警鐘である。米価の安定とは、単に農家の生活を守ることにとどまらず、国民の食の安全と地域経済の基盤を支える行為だ。
高市政権の「市場重視」姿勢は一見合理的に見えて、実際には責任の放棄に近い。食料の安定供給を「需要に応じた生産」で言い換えることはできない。米は国の礎であり、単なる需要曲線の一点ではない。いま求められているのは、政府が備蓄と価格を一体的に管理し、農家が安心して作り、消費者が安定して食べられる循環を取り戻す政治決断だ。